緑黄日記

水野らばの日記

サボテンを育てる青年

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新緑萌ゆる昨年の5月、私は花屋の店先にしゃがみこみ、雑然と陳列されたサボテンを眺めていた。

 

先の春に大阪のコンクリートジャングルを抜け出し、京都に根城を構えた。1Kの安アパートであるが、存外気に入っている。安アパートから安アパートへの家渡であり、家賃もさほど変わらない。しかし、ひとつだけアップデートされた箇所がある。今回の根城にはベランダがあるのだ。

 

大阪で住んでいた安アパートにはベランダがなかった。唯一の窓を開ければ、そこには無骨な灰色の壁が聳え立っていた。「日照権」というワードが頭に浮かぶ。お昼の2時間だけ、隣家の2階の窓から反射される太陽光が届くのみだ。主要河川の水源を他の国に握られている大陸の小国の気分であった。

 

しかし、今回の安アパートにはベランダがある。ベランダからの視界も良好であり、太陽の恩恵を存分に受けることができる。嬉しい限りだ。

 

新居に越してきて2ヶ月が経った。お部屋やキッチンの整備もあらかた終わり、私は最後のフロンティアであるベランダの開拓を目論んでいた。ベランダの隅には室外機があり、その上の空間を持て余している。「ここで何か育てようかしらん」そう思っていたところ、花屋の店先でサボテンが陳列されているのを見かけた。そういうわけで、サボテンを眺めていたのである。そうして、ポテっとした可愛らしいサボテンを購入した。

 

なぜ、パンジーでも薔薇でもネギでもトマトでもなく、サボテンを育てることにしたのか。

 

まず、サボテンの育てやすさにある。ご存知の通り、サボテンは乾燥地帯などの過酷な環境で生きている植物である。そのため乾燥に強く、他の繊細な植物と比較すると、簡単に育てることができる。花屋の店員さんもそう言っていた。自分の世話さえろくにできない僕である。育てやすいに越したことはない。

 

そして、もうひとつの理由は、「ベランダでサボテンを育てる青年」という観念的な響きにある。「ベランダでサボテンを育てる青年」ものすごく格好いい。優雅であり、優艶であり、洒落てもいる。これから私が歩む美しく調和のある京都生活の布石として、ベランダでサボテンを育てるのはどうだろうか。そう考えたのである。

 

例えば、背が低く可愛らしい女の子が僕の安アパートに遊びにくる。彼女は綺麗に片付いた6畳を冒険したあと、「ベランダに出てみてもいいかい?」と言って窓を開ける。そして、サンダルを履いてベランダに出る。僕は玄関からもうひとつのサンダルを持ってきて、笠木に肘を乗せる彼女に肩を寄せる。「いい景色だね」と呟く彼女に「そうだね」と相槌を打つ。そこで彼女は僕の育てるサボテンを見つけるのである。「あっサボテンだ。サボテンを育てているなんて君も存外洒落ているね」「そうね、サボテンって何か好きでさ」そんな会話がなされることだろう。既に彼女は僕に魅了されている。「ベランダでサボテンを育てる青年」という観念的な響きに魅入られているのだ。サボテンにはそういう魔力がある。背の低い女の子との蜜月を夢見て、買ってきたサボテンを室外機の上においた。

 

先日、久しぶりにベランダに出ると、サボテンが枯れていた。

 

新緑だった表皮が茶色くくすんでいる。サボテンって枯れるのか。確かに、ここ数ヶ月の間、何の世話もしていなかったなと自省する。花屋の店員さんに「サボテンの中でも育てやすいやつですよ」と言われたサボテンを枯らした。先ほどまで「サボテンを育てている青年」という名誉ある地位に立脚していたが、瞬く間に「サボテンを枯らした男」に転落してしまった。無論、背の低い女の子との蜜月には至らないうちに。

 

「サボテンを枯らした男」この事実は厳然として残る。それは僕の後半生に暗い影を落とすであろう。「サボテンを枯らした男」には何も為すことはできない。築き上げてきた信用は失墜し、地べたをゴロゴロと転がっている。

 

「この猫飼っていい?ちゃんとお世話もするし」

「でも、あなたサボテンを枯らしたじゃん」

 

もう、雨に濡れている捨て猫を拾ってきて、飼育するかどうか、交渉のテーブルに立つこともできない。完全に言い負かされている。

 

「俺、お前のこと守るから!」

「サボテンも守れない奴に?人間の私を?」

 

滑稽である。これも完全に言い負かされている。煽られてもいる。サボテンを枯らすような男に一体何が守れるというのだろうか。僕にはもう愛する女性を守るステージに立つこともできない。「お前のこと守るから」騎士のように雄々しいセリフがギャグとして成り立っている。

 

サボテンを枯らした人間はその後の人生がギャグになる。