緑黄日記

水野らばの日記

行かない旅行に行きたい

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旅行に行きたい。

 

旅行が好きだ。旅行は、手狭な日常の外側へと物理的にも精神的にも飛び出す行為である。日々に忙殺され、くすんでしまった魂を洗ってくれる。理不尽と不条理に満ちた仕事場でパソコンと格闘している時など、生活を構える京都盆地からひょいと飛び出したくなる。

 

学生時代などは、暇さえあれば鈍行列車に乗って、日本各地を巡っていた。松島の浜辺で佇んだり、津軽海峡を眺めたり、新潟では海の迫る駅のホームで2時間くらい座ったりしていた。今思うと海を見てばかりである。『移動距離が長い人間ほど、日々の生活でより高い幸福度を感じる傾向にある』という話がある。私は大学生の頃、友人が誇張なしにひとりもおらず、根城である安アパートの一室で天井を眺めるだけの生活を送っていた。帳尻を合わせるように不足した移動距離を旅行によって補填していたのである。

 

そんな旅行好きの私だが、ここ1年は思うように旅行が出来ていない。昨年の春頃から疫病が巷を席巻し、以前のように各地へ足を伸ばすことが出来なくなってしまった。私は「旅行に行きたい。しかし、行くのは憚られる」そんなアンビバレントな気持ちを抱えていた。

 

先日、ふと思い当たったことがある。

 

「旅行の予定だけ立てれば良いのではないだろうか」

 

旅行の計画を練る時間は楽しい。旅行雑誌や旅行情報サイトを見ながらあれやこれやと思いを巡らせる時間は格別だ。当てのない旅も楽しいが、旅行には計画を練る楽しさもある。この楽しみだけ享受し、実際には行かなければいい。そういうわけで、私は『行かない旅行』の計画を練り始めた。

 

 

私は関西空港のロビーで佇んでいた。目前のモニュメントクロックは3時を指している。

「水野くん、お待たせ!」

溌溂とした声の方向に目をやると、駆け寄って来る人影がある。白のロングスカートにブラウンのパーカーを着た女性が大きなキャリーバックを引きながら駆けてきた。

「待った?」

「全然。走らなくてもいいのに」

彼女は息を整えるように肩を上下させる。そして、視線を私の頭からつま先へと上下させ、訝しげな顔をした。

「あれ?キャリーバックはどうしたの?」

「荷物?これで全部だけど」

呆気に取られる彼女に私は胸に下げた帆布のトートバッグを指してみせた。トートバッグの中にパスポートと財布と歯ブラシとスマホと充電器が入っている。海外旅行に行くには極端に軽装だ。

「まあ、足りないものは向こうで買えばいいかなって」

これはアイドルグループ『V6』に所属する森田剛という男のオマージュである。彼には、海外に仕事で向かう際、パスポートと小銭が入ったビニール袋だけで空港に現れたという逸話がある。

「シンガポール行くんでしょ」

「そうだよ」

「やばいね」

彼女は得心した顔で話頭を転じる。相変わらず私がする奇行への飲み込みが早い。

「ごめんね。何から何まで任せちゃって。そういえば教えてくれなかったけど何泊するの?とりあえず4泊分くらいは用意してきたけど」

「とりあえずホテルは2ヶ月取っている」

私は敢えて超然と答えた。

 

このように『行かない旅行』には背の低い可愛らしい女の子を連れていくこともできる。何故なら行かないから。これまでの人生で、一緒に出かけてくれるような妙齢の女性に心当たりがあったことなど一度もない。しかし、『行かない旅行』の計画の中では因果律を操ることができるのだ。そして、2ヶ月もの間、ホテルをブッキングすることもできる。何故なら『行かない旅行』ではお金が無限だから。

 

 

シンガポールに来てから2週間が経った。我々はシンガポールのレジャーや観光地を楽しみ尽くした後、ホテルで一日を過ごしたり、インドネシアやマレーシアに足を伸ばしたりと、贅沢な時間を過ごしていた。

「明日はどうするの?」

屋台村でハンバーガーを食べながら彼女は言った。頬にケチャップがついていてもお構いなしである。

「ごめん、明後日、京都で友人とご飯に行くから一旦帰る」

「え〜じゃあ、私も一回帰る。明後日の金曜ロードショーが『千と千尋の神隠し』らしいし」

彼女は僕の乱暴な発言を意に介さず、平然としている。

「そう、じゃあチケット取っておくよ」

「ホテルはどうするの?」

「チェックインしたままにしようかなと思ってる」

 

『行かない旅行』では、2ヶ月間ホテルを予約するも、2週間でふらっと帰ることもできる。何故なら行かないから。同伴する背の低い女の子の頭もバグらせることも可能だ。

 

 

関西空港からシンガポールに向けて飛び立った1ヶ月後、僕と彼女は河原町の喫茶店で向かいあっていた。熱帯の都市国家に比べて京都はひどく寒い。窓の外ではちらちらと雪が降っている。

「結局、シンガポール戻らなかったね」

アイスティーのストローを加えたまま彼女が呟いた。

2週間前、我々は京都に“一旦”帰って来た。用事を済ませた後、シンガポールに戻る予定だったが、だらだらと過ごしているうちにこれまた2週間が経ってしまったのである。

「そうだね。普通に京都にいたね」

僕は運ばれてきたコーヒを受け取りながら答えた。

「ホテル、今もチェックインしたままなの?」

「そうだよ」

彼女は悪戯っぽい目でストローを加えたまま頬を膨らませている。あっと思う間もなく、アイスティーが泡を立てて震えた。

「今から行く?シンガポール」

我々は喫茶店を出ると、阪急電車に乗り込み、シンガポールへと向かった。

 

『行かない旅行』では京都からシンガポールへ480円で行くことができる。