緑黄日記

水野らばの日記

「片付け術」を披露したい

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先日、職場に置いてあるテレビを見ていると、「片付け術」なるものが紹介されていた。番組は情報バラエティであるらしく、ある「片付けられない人」のご家庭に「片付けのプロ」と名乗る人物がお邪魔し、収納棚の作り方や、空間の活用方法、ものの取捨選択など、「片付け術」を「伝授」するものであった。その「片付け術」のひとつひとつに、スタジオの演者たちが頻りに関心し、どよめきを挙げ、生活に役立つ情報として視聴者に紹介する流れであった。

 

そのどよめきが脚色や演出であることはわかっているものの、僕は、これがそんなにすごいことなのだろうかと思った。「片付け術」が生活に役立つ情報として、情報バラエティ番組で扱われなくてはならないほど、巷には「片付けられない人」が溢れているのであろうか。いや、「片付けのプロ」が存在する世の中である。おそらく、生活をする空間にものが溢れ、足の踏み場もなく、にっちもさっちもいかず、足の踏み場の孤島で途方にくれる「片付けられない人」を「片付けのプロ」が颯爽と救出する。そんなことが、今まさにこの瞬間にも起こっているのだろう。やはり、僕の既知の範囲など世界のほんの一部でしかない。

 

確かに、職場を見渡しても、デスクの上を書類やらパソコンやら本やらで溢れさせ、窒息寸前の同僚もいる。足の踏み場もないような部屋で生活している人を見聞きしたこともある。僕の勤務する学校のギャルは教室の一角に教科書やクッションや手鏡やセーターやヘアアイロンや化粧道具などを散乱させ、占拠し、担任に立ち退きを勧告されている。「片付けられない人」は確かに存在するのだ。

 

片や僕はというと、「片付けられない人」というワードと対になる言い方をすれば、「片付けられる人」である。ものが溢れて困る経験など記憶にない。僕の起居している安アパートの1Kは空間を持て余すほど理路整然と片付いているし、仕事場のデスク周りなども基本的に綺麗な見栄えである。

 

僕は綺麗好き、几帳面、潔癖症、そういった類の人間である自覚はない。しかし、身の回りを整理整頓によって隅々まで支配している。放置していれば無秩序が広がる空間に秩序をもたらすためにはある程度の気概が必要である。身の回りが綺麗な方が気持ち良いという俗耳に入りやすいという理由もあるが、さらに大きなウェイトを占める理由がある。

 

まず、起居する安アパートの一室であるが、これは「もしかしたら、その日の流れで急に笑顔の素敵な背の低い女性が僕の起居するアパートに遊びに来るかもしれない」という可能性を考慮してのものである。好機というものは往々にして突然転がり込むものだ。いつ何時、可愛らしい女性が僕の住む安アパートの一室に転がり込んでくるかわかったものではない。そういうわけで、お部屋を綺麗に保っているのである。ちなみに、実家を離れ、ひとり暮らしを始めてから7年目になるが、不自然にも、未だ好機に恵まれたことはなく、ただただ「部屋を綺麗にする習慣のある人」になっている。

 

また、仕事場のデスク周りに関しては、業務中にどうしても乱雑となってしまうが、職場を後にする時にはデスクの上に綺麗に整えている。これを習慣にしていると、いざというときに、デスクの上を粗雑なままにすることで、「まだ職場にいる感」を演出しながら職場を抜け出すことができるのである。

 

動機に濃淡はあるものの、つまり、僕は「片付けられる人」である。プロに「片付け術」を伝授される必要がない。そればかりか、これは僕も「片付け術」を「伝授」する資格を有しているのではないだろうか。そういうことなら、一刻でも早く、自身の「片付け術」を紹介し、「片付けられない人」を救う優しさを発揮しなければならない。それでは、水野プロによる「片付け術」をご紹介進ぜよう。

 

第一のステップ『捨てる』

 

まず、何よりも所有するものの総量を減らすことから整理整頓は始まる。人間の支配できる空間には限度があり、そこに詰め込むことのできるものの総量にも限度がある。つまりはものを減らすことが片付けの基本である。ものを次々と捨てる。必要でないものは躊躇なく捨てる。僕のような「片付けのプロ」ともなると、必要か否かを考えるよりも前に捨てている。

 

ちなみに僕の「片付け術」は以上となる。

 

ものをどんどん捨てていくので、この前も必要な書類をシュレッダーにかけてしまい、上司に頭を下げて再発行してもらいました。