緑黄日記

水野らばの日記

教育実習を振り返る

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いつもどおり、いたいけな少年少女たちに科学を説く。しかし、普段と異なる点がひとつだけある。僕の正面、教室の後ろに教育実習生が立っているのだ。彼女は真剣な眼差しで僕と僕の書いた黒板を見つめ、何やらいそいそとノートに書き込んでいる。「僕の授業なんかで学ぶことなどひとつもありませんよ。何か書く必要があるのなら『教師は授業50分間の間に全然椅子に座ったりする』とでも書いといてください」と、こう目で訴えるが、彼女はパッと目を見開いて見つめ返してくるだけである。

 

今週はじめ、僕の勤める学校に教育実習生が来た。なんでもこの学校の卒業生であるらしい。大学で教職(教員免許状を取得する授業)を受講し、理科の先生を目指しているようである。今朝、彼女に「水野先生、○時間目の授業見にいってもいいですか」と言われたのだ。

 

「なんで僕?教員生活半年だよ?」

 

こう思ったし、こう口に出してしまった。僕の担当する学年の授業を見ておきたく、スケジュール的に僕の授業が丁度よかったそうである。そういうわけでこのような状況になった。僕はいつもどおりの授業をしたので終鈴の5分前には授業が終わる。「はい、今日はもうおしまいです!質問あったら呼んでください!」と生徒たちに言ってから教室の後ろにいる教育実習生に話しかける。

 

「ね?学ぶことなんもなかったでしょう?」

「そんなことありません。先生の授業大変勉強になりました」

 

まことに調子がいい。調子の良さでご飯を食べていくつもりか?心にもないことを堂々と言う能力は阿保と外道で構成される現実社会において有用なスキルのひとつである。そのスキルの完成度に僕は感心した。彼女のノートを一瞥すると、僕の授業の記録、板書とそれに対する所感がびっしりと書かれていた。まさか本当に学ぼうとしているのかコイツ。

 

自分の教育実習を思い返してみる。

 

本当にいい加減にこなしていたような気がする。授業見学など、大体は落書きして過ごしていし、授業もなんとなくで行った。僕と同時期に教育実習を行っていた他大学の学生なんかはクラスの自己主張控えめな生徒を「モブ」と呼んでいた。これは定期的に思いだして「学校の先生向いてなさすぎワロタwww」と笑ってしまう。

 

そういえば、教育実習日誌もいい加減に書いていた。

 

教育実習日誌とは、その名の通り、教育実習の日誌である。教育実習生はその日の活動記録や所感をA4裏表に認め、指導教員に提出しなければならない。これが本当に面倒臭い。教育実習日誌は独特の文法構造で書く必要があり、好き勝手に書くことはできない。

 

例えば、「教室には気怠い空気が漂っていた。カーテンの隙間からぬるりと入り込んだ日光が生徒の頬を照らしている。黒板の前では禿頭の男性教師がメンデル氏の発見した遺伝法則をあくせくと説いているが、生徒たちはどこ吹く風、教室に現れた非日常こと私に意識を向けている。大学において、実験データの取り扱い方で指導教員にボコボコにされている身からすると、メンデルの法則をさも『これが科学だ』と大手を降って自我の曖昧な少年少女たちに教えることに疑問を抱くが、科学の入り口としては、中学生の勉強としてはこれくらい簡潔な方が良いのかも知れないとも思う」このような文法構造は許されないのである。

 

仕方なく慣れない文法構造で日誌を書いていた。しかもこれは手書きで書かなくてはならない。なんなんだ!21世紀なんだぞ!前時代的な方法で苦労することこそが、学びや成長につながるとでも考えているのだろうか。これでは宗教ではないか。宗教の信仰は自由であるが、それを遍く人々に押し付けようとする態度はその範疇を超えている。拒否するのもまた自由なのだ。つまりは面倒臭い。考えるのも書くのも面倒臭い。僕は考えた。以前書いたものと同じ内容を書けばいいのでは?

 

教育実習はさほど変わらない毎日の連続である。指導教員をはじめとする教員の授業を見学する、指導案(授業ひとつの計画書)を作成する、指導案をもとに授業をする、この繰り返しである。これは、以前書いた日誌をコピーして提出してもいいのではないか?と考えたのである。

 

結論を言うと、「成人した人間がこんなに怒られることあるんだ」というほど怒られた。これは全面的に僕が悪い。