緑黄日記

水野らばの日記

25を過ぎたら死ぬしかない

 

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もうすぐ誕生日を迎える。

 

25歳になるのだ。もうこの世に生を受けてから四半世紀にもなる。小さきお子様時代は誕生日といえば世界の主人公になったような気がしていた。しかし、この年になると、誕生日はもはや嬉しいものではない。1年間という期間を確認するためのマイルストーンのようなもので、「ああ、この1年間も人生に対して手も足も出なかったな」と思うだけの日に成り下がっている。

 

思えば、対面で人から誕生日を祝われたことなど、もう何年もない。ひとりで自分の誕生日を祝うために買った四角いコンビニのケーキを開けてみると、切れ目が入っており、実は三角形のケーキ2つだとわかった瞬間、このケーキは誰かと分かち合うためのものだと悟り、ギャンギャンに泣いた日はあったが。その日初めて、声優のツイートに「今日、誕生日なんです」とリプライを飛ばす人の気持ちを完全に理解した。昨年は母親に「24歳になりました」とメッセージを飛ばすと、「私なんて24歳の時には長男(僕の兄)が立ち上がっていたけどね」と謎マウントを取られた。母親が子供に対してマウント取るなし。

 

25歳になる。25を過ぎたら死ぬしかない。

 

ネクライトーキーというバンドがある。ギターボーカル、もっさの『ハム太郎ボイス』とも揶揄される幼く可愛いハイトーンボイスが魅力的な5人組のポップバンドだ。彼女らの楽曲は、服部さんに許しを乞う曲や、ひたすら北に向かう曲など面白可笑しいものが多い。楽曲のひとつ、『めっちゃかわいいうた』で「価値も意味もないようなかわいいだけの歌になればいいな」と歌っているように、何かを伝えようとしているわけではないのかもしれない。昔、とある小説家がインタビューで、「この物語を通して世界の美しさや命の大切さを伝えようとは一切思っていない」と言い切っていたのを見て感激したのを思い出した。ちなみに、この曲では、サビで嫌いな人間を鉄で殴っている。

 

彼女らの代表曲のひとつが『オシャレ大作戦』である。

 

 


ネクライトーキー MV「オシャレ大作戦」

 

25歳を目前にこの曲を思い出した。僕はこの曲が大好きなのだ。ネクライトーキーにハマったきっかけの曲でもある。この曲にこんな歌詞がある。

 

お金もない 努力もしない

二十五を過ぎたら死ぬしかない

形の無い恐れだけが

「さあ!」

 

 

タイトルの回収は終わりです。この曲を初めて耳にした時、僕は「えっ、あと1年もしないうちになるんだけど、25歳なるんだけど。お金もないし、努力もしないし、25歳なるんだけど。どうしたらいいの?死ぬしかないの?確かに形の無い、漠然とした恐れや焦燥感、不安が心にモヤのようにかかっているけど。どうしたらいいの?」という気分になった。そして、「さあ!」と言う合図とともにこの曲はサビに突入する。

 

タイト、ト、ト、ト、トンと僕らは銀座でヘヘイヘイ

 

は?

 

何にもわからないのだが!?最寄駅しかわからない。答えを教えてくれ。少しの情景描写の後、サビが繰り返される。

 

ト、ト、ト、トンと僕らは渋谷でヘヘイヘイ

 

 

銀座線乗った?

 

この曲は基本的にこんな感じで進む。時折、「反吐が出るな」などとヘイトを撒き散らすが、終始「ヘイヘイ」「トントン」と言っている。この曲の主題としては、これは僕の主観であるが、『惨めな自分を肯定して「ヘイヘイ」と楽観的に生きる』というところであろう。「自己肯定」これはロックの王道とも言える。その王道を、かわいい顔をしたかわいい声の可愛い服きた可愛い背の低い(KANA-BOONのボーカルと並び立っているのを見たら、そんなに低いわけではなかった)女の子が我が物顔で闊歩しているその様に惹かれたのかもしれない。この曲を聴くと、何故か幼女がチェンソーを持っている絵が浮かぶ。

 

誕生日前に予定されていたネクライトーキーのライブが誕生日後に延期となったので、25を過ぎても生きていたいです。来年の誕生日には地下アイドルの女の子になってバースデーイベントを打ちたいな。

都会的な恋愛がしたい

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京都の朝は寒い。

 

京都に移住した。6年前、大学進学を機に用水路のザリガニを採る手を止めて、島根から大阪に引っ越した。そしてこの度、転職をして京都に移住したのだ。東へ東へと向かっている。じわじわと東京に近づいていく。僕が崇拝する池田エライザさんの住む東京に。これ以上東京に近づいてしまうと、太陽に近づきすぎたイカロスのように身を持ち崩してしまうだろうな。

 

東京に漠然とした憧れを抱えている。

これは思春期に東京の文化を画面越しに多く摂取していたためである。僕の住んでいた島根県の集落はめちゃくちゃな田舎であった。隣の家という概念がない。田舎過ぎて文化形成がされず、文明文化はテレビから受け取っていた。新宿の大人なラブストーリー、原宿のポップカルチャー、丸の内ではマーシャルの匂いで飛んじゃって大変、秋葉原では電気を纏ったプロトタイプなオタクが萌え悶える。銀座ではシースー、青山の選民意識、渋谷では交差点でサッカー日本代表の勝利を祝す。それらのほとんどは、東京の4つのテレビ局(テレビ朝日、テレビ東京は映らない)を通して服用していたのだ。田んぼの畦道をポテポテと歩きながら、「東京はすごいんだろうな〜住んでみたいなぁ〜ふぇぇ、あ、イモリだ!捕まえよう!」と思っていた。

 

フレンズというバンドがある。

渋谷のひとつ隣、少し大人チックな(らしい)街、神泉からとった『神泉系』を自称するおしゃれシティおしゃれポップおしゃれ東京おしゃれ大人バンドだ。都会的な生活、都会的な恋愛や友情を独特のユーモアでコメディに仕立てる。以前、当ブログで紹介した『夜にダンス』が有名である。僕は東京をこのバンドから感じている。

 

そんな彼らの代表曲のひとつが『NIGHT TOWN』だ。

 


フレンズ「NIGHT TOWN」

 

僕はこの曲が大好きなのだ。大好きなのだが、何言っているかさっぱりわからない。正確には、意味はわかるが本質的な理解が出来ていないというところであろうか。海外の文学を読む時のように、物語の筋や流れはわかるものの、シーンや感情の機微に迫れていないモヤモヤを抱える。しかし、惹かれるのだ。この感覚は椎名林檎さんの『丸の内サディスティック』を聴く時にも感じる。何言っているか全くわからないが惹かれる。思えばこの曲の舞台も東京だ。音楽の聴き方は人それぞれである。共感ではなく世界観、憧れで音楽を聞いてもいいのだ。

                                                                                                                    

『NIGHT TOWN』を理解できる部分を箸で摘むように聴いてみる。どうやら恋愛を歌った曲らしい。東京の明るい夜、これまた明るい月の下、身を寄せ合って歩くふたり。私は君のこと「すきになっちゃた」のだけど、君はどうかな。「君のハート」を早く教えて欲しいな。延長線の行方が知れないもどかしくてじれったい恋心をボーカルのえみそんが歌い上げる。低音やファルセットが魅力的だ。リズムの取り方が独特で心地が良い。しかし、何言っているかわからない。これは僕が恋愛に疎いからだろうか、島根出身の田舎者であるからだろうか。はたまた恋愛弱者かつ田舎者であるからだろうか。

 

この曲は「東京の夜は寒いね」というフレーズから始まる。ここからもうわからない。「季節によるだろ!」と言いたくなる。また、東京は平野にあるため、日較差(1日における寒暖差)も内陸に比べて小さいではないか。しかし、これは田舎者の発想である。夏だろうが、冬だろうが東京の人間からすれば「東京の夜は寒いね」なのだ。この後も基本的にはずっとわからない。「ヘイMr.なスターライン」ってなんだよ。助けてくれ。

 

サビに「同じ体温で眠りたい」という歌詞がある。これはわかる。わっかる。犬科の哺乳類ワッカル。ここが一番わかる。東京での恋愛も、島根や京都や大阪と同じように、行き着く先は優しくし合うこと、そしてそれを許すことである。これは万国共通であるらしい。僕もウインナーコーヒーに似た都会的な恋愛の妙味を味わい、最終的に狸顔の可愛らしい女の子と同じ体温で眠りたい。しかし、恋愛弱者かつ田舎者には越えるべきハードルが多すぎる。ふぇぇ

 

「フレンズの曲めちゃくちゃ良いので聞いて欲しい」というお話でした。

シャングリラ をこじらせる

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机に突っ伏してチャットモンチーを聞く。通常回である。

 

チャットモンチーの名曲のひとつに『シャングリラ』がある。アニメ『働きマン』のエンディングテーマだったためご存知の方も多いのではないだろうか。僕が新入社員の頃、「頑張ります!」という意味を込めて両手の中指と人差し指をおでこに当てる『働きマン』のあのポーズをとっていたら全員に無視されたでお馴染みの『働きマン』である。この曲を聴き続けて10年以上にもなる。10年以上も聴いていているのにわからないことがある。

 

「シャングリラ」ってなんだよ。

 

この曲は、さも当然かのように「シャングリラ」というワードから始まる。ずっと、訳もわからず「シャングリラ」を受け入れてきた。「いい曲だよね〜シャングリラ。メロディがキャッチーで、ベースのビート感が気持ち良いし、拍がひとつ増えたり、減ったりするところもいいよね〜ぐへへ」と訳知り顔でぬかしている。しかし、この曲の本質たる「シャングリラ」について全く理解していないのだ。

 

このモヤモヤを簡単に解決する方法がある。調べれば良いのだ。インターネットには万物の答えがある。猫も杓子もインターネット上では丸裸だ。スマートフォンでちょちょいと調べれば分かることであるが、一旦スマホを川に落として、もっとこの知らない状況で遊んでみよう。

 

シャングリラシャングリラ、舌触りが心地いい。音の響きがどこかコミカルである。

シャングリラシャングリラ、語感から何か、豪奢な照明という感じがする。綺麗な洋館の天井にシャングリラがキラキラと輝いている。完全にシャンデリアに引っ張られている。シャングリラシャングリラシャングリラ、毒リンゴを食べたのは?―無用心―

 

歌詞を見ると、「シャングリラ」とは人のことらしい。シャングリラさんに向かって、幸せだって叫べだの、叱りながら愛してくれだの、泣き顔を見せろだのと投げかけている。僕もシャングリラに「泣き顔見せてよ!」と言う背の低い女の子になりたい。

 

 

歩き慣れていない夜道をふらりと歩く。

隣ではシャングリラが背の低い私の小さな歩幅に合わせるようにゆっくり歩いている。3月の冷たい風が足を撫でるが、繋いだ手はシャングリラの暖かさに包まれている。高校からの帰り道、遠回りして駅へと向かうのが私たちの日課だ。私たちは右左にコロコロと猫のように気まぐれに進んだ。

蛍光灯がシャングリラの横顔を照らしている。私よりも長いまつ毛が乙女のプライドをえぐるが、そこもまた愛おしい。

「今日さ、坂本が遅刻して来たじゃん。授業の最中なのに前の扉から入ってきて『おはようございます』って大声で挨拶して普通に席ついて。あれぐらいの強メンタルになりたいわ」

シャングリラは明るい調子で言った。シャングリラは常に明るく朗らかな雰囲気を纏っている。丸めた紙のシワが取れないのと同じように、いつでもクシャっとなる笑顔を周囲に、そして私に振りまいている。

「坂本くんメンタル強いよね。『空いてないと死ぬ』の一本槍でピアス穴を学校に黙認させてるし」

シャングリラはからからと笑った。シャングリラは部活やテレビや先生のことについて語った。いつもの調子で面白おかしく、楽しげである。しかし、私は知っているのだ。シャングリラが学校で貰った進路希望調査用紙をぐちゃぐちゃに丸めていたこと。シャングリラはいつもそうである。弱い部分を私に見せない。そして、いつもひとりで抱え込むのだ。

少しの沈黙の後、私は意を決して口を開いた。

「あのさ、シャングリラ、あ、いや、あのさ、大丈夫?」

シャングリラは一呼吸おいて明るい調子で答えた。

「何が?あ、期末テストの話?あとは物理の中村に頭下げればいいだけだよ」

やはり予想通りである。シャングリラは自分の弱い部分を見せまいとおどけて誤魔化すのだ。知っている。それがシャングリラの優しさなのだ。その冷たい優しさに私は口籠ってしまった。

「水野、なんかあった?」

彼は落ち着いた声で言った。私は立ち止まった。

「どうした?大丈夫?」

シャングリラが俯く私の顔を覗き混んでくる。私は顔を上げてシャングリラの耳に触れた。ひどく冷たい。

私はシャングリラの弱いところも含めて好きなのだ。私はシャングリラの人生にちゃんと関わりたいのだ。泣き顔も困り顔も見せて欲しいのだ。でも、シャングリラが弱いところを見せたくないと思っているなら黙っておこうと思う。シャングリラも黙っているからおあいこだ。

私はシャングリラの胸に顔を埋めた。シャングリラの心の寂しさが痛い。心臓がドクンドクンと血を巡らす音が聞こえた。

 

なんかクラムボンみたいな文章になりました。「シャングリラ」って理想郷とかユートピアみたいな意味らしいです。勉強になりましたね。

 


チャットモンチー 『「シャングリラ」Music Video』

思い出せない幸せになりたい

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先日、Twitterで仲良くさせていただいている方にある短歌の歌集を勧められた。

 

俵万智さんの歌集『かぜのてのひら』である。僕の「俵万智さんなんかいいよね〜ぐへへ」という阿保丸出しツイートに対してリプライをくれたのである。嬉しいかぎりだ。

 

僕は俵万智さんの詠む短歌が好きである。河川を睥睨する土手に腰かけ、少し強い風にページを捲られながら『サラダ記念日』読む。そんな文学少女じみたこともしている。そんなわけで、彼女の歌集は一通り履修してきている。『かぜのてのひら』も例に漏れない。読んだのは中学生の頃だっただろうか、いや、高校生か、曖昧である。父の書斎の片隅で、俵万智さんの他の歌集やエッセイと一緒に行儀良く並んでいた気がする。どんな歌集であったか、記憶を辿るが短歌のひとつも思い出せない。記憶の中の歌集をめくっても白紙ばかりである。しかし、この歌集を読んで、「世界の美しさって言語化できるのかよ」と、ひどく感銘を受けたのを覚えている。詳細を思い出すことはできないけれど、あの本よかったなあという自分の感情だけは記憶に残っている。

 

ここまで思いを巡らして、「お、これいいな」と思った。

 

何があって、何を見て、何を聞いたか、隣には誰がいたか、どんなものを食べたか、何に触れたか。元となった出来事は覚えていないけれど、踊った感情だけはしっかりと記憶に刻まれている。そんな情動である。良い。めちゃくちゃ良い。俵万智さんならこれを元に一首詠んでいる。もう歌集に載っているかもしれない(あったら教えてね)。

 

今をときめくスリーピースバンド、Saucy Dogの楽曲の中に『月に住む君』という歌がある。

 

 


Saucy Dog「月に住む君」MUSIC VIDEO

 

遠い昔、君と月に住んでいた。そんな夢みたいな話でも、そう思うと夜空に浮かぶ月が愛しく思えてくる。こういった楽曲である。現実と夢のふわふわした曖昧さを描いた叙述的な歌詞をボーカルの石原さんが熱く、そして優しく歌い上げる。解釈の余白の多い歌であるが、Saucy Dogが『別れ』を曲のテーマに選ぶことが多いため、この曲も悲しい想像をしてしまう。この曲の中にこんな歌詞がある。

 

思い出せないけれど幸せだったような気がしてる


夢の中、月の上。そこで君との間にあった出来事は忘れてしまったけれど、幸せだったのは覚えているよ。そんな風に石原さんは歌っている。

 

俵万智さんの歌集の話から思考を巡らし、この曲に思い当たった時、「ほら見たことか!」と声に出してしまった。会社のデスクで。仕事中に。声を張り上げたものだから仕事をさぼっているのが先輩にばれた。

 

僕は自分の心情を歌った曲を脳内のライブラリーから探す手癖がある。ほとんど、学者が権威ある論文を引用して自分の理論を補強するように、自分の心情を歌った曲を探して、「ほら!ここにも、そう書いてあります!」と高らかに主張するのである。主張する先は暗暗たる虚無であり、こんなことに意味などないのだが。

 

僕も、誰かの『思い出せないけれど幸せだったような気がしてる』になりたいものである。例えば大学時代はどうであろうか。大学時代、僕は友人が一人も出来ず、会話をする相手といえば、指導教官たる教授だけであった。同じ学科の同級生にとって『思い出せない』ところまでは来ている。後は『幸せだったような気』にさせるだけだ。

夏目漱石を恨む

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コンビニを出る。3月となったのにまだまだ寒い。

見上げると、東の空に月が輝いていた。コンクリートジャングル大阪がその光量の多さを遺憾無く発揮しているが、それにも負けず月は綺麗である。調べると、もうすぐ満月であるらしい。月が綺麗だと遠回りして帰ってしまう。僕は生粋のロマンチストなのでこういうことをする。カルボナーラとポテチと洗顔を抱えたロマンチストなので。

 

月といえば、かの夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したという眉唾な逸話が有名である。僕は彼に言いたい。「なんなんだお前」と。

 

断っておくが、僕は夏目漱石が大好きである。彼の作品、特に前期の作品を愛読している。また、彼の言葉『ただ、牛のように、図々しく進んでいくのが大事です』は僕の座右の名となっている。「もうダメぽよ〜ふえぇ〜」となったとき、この言葉のおかげで歩みを止めないでいられた。この言葉に何度救われたことか。しかし、時には『牛』を都合よく使ってしまい、「牛だって眠い時は寝るし、作業ほっぽり出して寝よう」「ダイエット中だけど、牛だってお腹空いたらご飯食べるし、夜中にポテチ食べちゃおう」など『牛』を免罪符に目の前の問題から逃げ出すことがよくある。

 

さて、閑話休題である。夏目漱石なんなんだお前、お前のせいで困っているんだぞ。

説明しよう。

 

 

職場の飲み会の帰路、駅に向かって歩く。傍らには可愛らしい女性がいる。彼女は職場の先輩である。何かと目をかけてくれる優しい女性だ。僕は彼女にうっすらと好意を抱いているが、彼女には恋人がいる。僕はこの好意を胸に留めておくばかりにした。紳士として当然のことである。

ふと見上げると正面にまん丸の月が輝いていた。僕の心の曇天模様とは裏腹に、星たちに囲まれた月がその美しさを存分に放っていた。

「あ、見てください。月、綺麗ですよ」

僕がそういうと彼女が足を止めた。振り返って彼女を見ると暗い顔で俯いている。

「どうしたんです」

数秒間の沈黙の後、彼女が口を開いた。

「ごめんね、水野くんとはそういう関係になれない」

はてな、意味がわからない。月が綺麗ですねと言っただけではなないか。2人の間に沈黙が横たわる。そしてようやく合点がいった。夏目漱石のアレである。僕がただ日常会話として、月の綺麗さを共有しようと言った『月が綺麗ですね』が彼女の中で『I love you』と翻訳されてしまったのだ。僕は慌てて説明する。

「いや、そうじゃなくてですね。月が、あの綺麗なので、単純に。そ、そういう意図はなくてですね」

何を言っても虚しいばかりである。もう彼女の中で僕は、なんか好意を伝えてきた無神経で意味不明な勘違い野郎である。

「ごめん、帰るね」

彼女は小さくそう呟くと駅方面へと足早に去っていった。ひとり残された僕を月が虚しく照らす。

 

 

こんなことが起こる可能性がある。夏目、お前のせいだぞ。他にもこんなパターンがある。

 

職場の飲み会の帰路、駅に向かって歩く。傍らには可愛らしい女性がいる。彼女は職場の先輩である。僕らは、『まだ』恋人どうしではない。彼女とは休日にふたりで音楽ライブに行ったり、水族館に言ったり、映画を見にいったりしている。僕は彼女に好意を抱いているし、彼女からの好意も多々感じている。いわゆる『出会ってから付き合うまでのあの感じ』である。ありがとうSHE IS SUMMER。

ふと見上げると正面にまん丸の月が輝いていた。あれ。僕は気がついた。月が汚いのである。薄汚れているし、埃っぽい。何か茶色い汁が滴っている。僕は目をゴシゴシと摩った。しかし、何度見ても月が汚い。

「先輩、なんか今日の月、汚くないですか」

僕がそういうと彼女が足を止めた。振り返って彼女を見ると暗い顔で俯いている。

「どうしたんです」

数秒間の沈黙の後、彼女が涙をこぼしながら口を開いた。

「うん、わかった。ごめんね今まで付き合わせちゃって。ごめんね」

はてな、意味がわからない。月が汚いと言っただけではなないか。2人の間に沈黙が横たわる。そしてようやく合点がいった。夏目漱石のアレである。僕がただ日常会話として、月の汚さを共有しようと言った『月が汚いですね』が彼女の中で『月が汚い』→『月が綺麗でない』→『I love youでない』と変換されてしまったのだ。僕は慌てて説明する。

「いや、そうじゃなくてですね。月が、見てください、汚いから。単純に。そ、そういう意図はなくてですね」

何を言っても虚しいばかりである。もう彼女の中で僕は自分を袖にした男である。

「ごめん、帰るね」

彼女は小さくそう呟くと駅方面へと足早に去っていった。ひとり残された僕を月が虚しく照らす。

 

僕は女性とふたりで夜道を歩いた経験はないのだが、こんなことを想像してしまう。図々しいロマンチストの牛なので。

 

お終いの人の趣味

 

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日曜日のお昼、パソコンを開く。

 

賃貸物件情報サイトを開いてお部屋探しをする。現在お付き合いしている彼女と同棲することにしたのだ。僕らは大学時代に軽音サークルで出会った。順調に愛を育み、今年で付き合って4年目である。付き合いも長くなるのでそろそろ同棲しようかということになった。僕が話を持ちかけると彼女は嬉しそうに快諾してくれた。

 

彼女とふたりで住むお部屋を探す。僕も彼女も大阪市内で働いているため、場所は大阪市内かその周辺が良いだろう。また、我々は一端の会社員であるため経済的にある程度はゆとりがある。家賃は8万円以下であれば良い。お互いの部屋と、共用スペースとしてリビングダイニングが欲しいから間取りは2LDKかそれ以上、彼女が料理を趣味としているのでキッチンは広め、あと食洗機が置くスペースがあるといいな。

 

 

という設定でお部屋を探している。

同棲する予定もないし、大学時代から住んでいるこの安アパートを抜け出すつもりもない。彼女もいない。ついでにいうと大学時代には彼女おろか友人が一人もできなかった。

 

架空の人生を設定して各地でお部屋探しをして楽しんでいるのだ。もう趣味の領域まで足を踏み入れてしまったかもしれない。ある時は都内の港区OLになり、ある時は脱サラして長野で喫茶店を営む青年になり、ある時は人気女性アイドルになり、ある時は隠居先を探す老夫婦になっている。片手には安い缶チューハイである。正気でこんなことをやっていられるわけがない。自分のことながら何故こんな状態になるまで放置したのだ。

 

架空の人物になりきり、その人生について思いを馳せる。そうすることで相対的に自分の人生について考える時間や機会が減る。有り体にいえば現実逃避である。自分の人生に100パーセント感情移入するには人生はあまりにも辛すぎるのだ。小説や映画などのフィクションを楽しみ、アイドルやスポーツ選手を応援するのもこの類だろう。一緒である。みんな大好き『余命幾ばくもない難病の薄顔イケメンと若い女の子との普通の恋を描いたマジ泣ける映画』でマジ泣くのと一緒である。そういうわけで大丈夫である。休日にお酒飲みながら架空の彼女との愛の巣を探していても大丈夫である。

 

目当ての物件をいくつか見繕い、満足してパソコンを閉じる。どなたかいいカウンセラーの方を知りませんか。