緑黄日記

水野らばの日記

英語で税関を通りたい

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先の春から英語の勉強をちょこちょことしている。

 

中学・高校生の頃、私はほとんど毎日学校に通い、暴れることなく椅子に座って授業を受けていたため、英語の「読み」「書き」に関してはある程度出来る。簡単な文章であれば読むことも出来るし、簡単な文章を作ることだって出来る。しかし、英語の「聞き」「喋り」はテンで駄目だ。音声が介在すると途端に訳がわからなり、あわあわしてしまう。日本の英語教育の権化のようなステータスの振り分けである。

 

そういうわけで、手始めに苦手な「聞き」を練習することにした。本屋さんで購入したCD付きの教則本を使い、「聞き」のトレーニングを始めた。英語で繰り広げられる会話音声に耳を澄まし、テキストで会話の内容を確認する。2ヶ月もの間、このような研鑽を積んだことで、私の身にどれほどの変化があったか。

 

英語を聞くと「「あっ!これ英語だ!」と思うようになった。

 

そうである。成果は全くといって感じられない。この2ヶ月の成果は、英語か日本語かを見分けられるようになった、ただそれだけである。私の勤務する学校に英語ネイティブと推察されるブロンドの大男がおり、彼がジャパニーズ英語教員と喋っている会話を盗み聞いてみたが、なんの話をしているか全くわからなかった。ただただ「はは~ん、これは日本語じゃないね、これは英語だね」と思うのみである。その横で日本人の教員同士が日本語で喋っている。「これは英語じゃないね」

 

英語の音声を聞き取ることは何故こうも難しいのか。本当は全て嘘なのではないだろうか。

 

これほど難しい言語を人類が使いこなしているとは到底思えない。誰かが私のような阿呆を騙すために英語を創り、そんなわかるはずのない架空の言語にあたふたする私をモニター越しに嘲笑っているのではないか。もう、そうとしか思えない。おい、監視しているのはわかっているんだぞ。そんなに私を困らせて楽しいか。私は天を睨め付ける。

 

 

 

 

大学4回生の終わりにオーストラリアに行ったことがある。当時、私は留年が決まっていた。怠惰故の留年、怠惰故の新大学5回生である。そんな現実から逃げるように海外へ逃亡した。現実は足が速く、飛行機でないと逃げきれない。

 

今回の渡航は私にとって初めて訪れる英語圏であった。関西空港から飛び立ち、グレートバアリーフの玄関口たる都市、ケアンズの空港に降り立つ。歳寒の日本とは違う熱帯の雰囲気に興奮を覚える。

 

機械によるセルフサービスでの入国審査を済ませ、ターンテーブルでトランクケースを受け取り、空港内を阿保面で闊歩していると、係員に「ヘイ、ボーイ、お前はこっちね」と声をかけられた。そして、彼に促されるままに周囲の入国者とは異なるカウンターに通される。「えっ、日本に強制送還ですか?なんで?怠惰故に留年したから?」と怯えていると、あることに思い当たった。恐らく、出入国カードの「薬の所持」の欄にチェックを入れたためであろう。私はアトピー性皮膚炎を患っており、特に当時は状況が酷かった。塗り薬を多く携帯していたため、それを申告していたのである。

 

税関でブロンドのお姉さんに声をかけられた。

 

「バッグの中を見せてくれない?」

 

もちろん英語である。ニュアンスで彼女の意向を理解した私は無言で頷き、リュックの中身を台の上に出していく。すると、彼女は私がリュックから取り出した塗り薬を指して「これは何?」と問うた。私は言葉に窮した。何と言っていいかわからないのだ。冷静に考えれば、「めでぃすん」くらいは言えた(これも間違ってはいる)だろうが、私は人生で初めて英語ネイティブと対峙しているこの状況に緊張し、ひどく動揺していた。

 

会話のターンは私にある。しかし、私はテンパってあわあわとしてしまっている。何か返さなければと、足りない脳を回転させる。そして、喉を締め付け、かろうじて声を発した。

 

「ヒフ、カユイカユイダカラ、ヌル、ヒフ、ダイジョウブ」

 

片言の日本語で喋ってしまった。

 

私が片言になる必要は全くない。英語を喋ることができなくてもやりようはいくらでもあったはずだ。しかし、私は持ち前の操縦下手と英語力の無さを露呈させ、なぜか片言の日本語を発したのである。

 

税関は通れた。通れるのか。

 

 

 

 

私の阿保ぶりは、モニター前の観察者の間で話題になっていたと思う。