緑黄日記

水野らばの日記

結婚式の招待状

 

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先日、友人夫妻の結婚式があった。

 

私は挙式、披露宴、2次会に参列し、彼ら2人の前途を祝した。「結婚したいな」と思う相手に「結婚したいな」と思われている、そんな奇跡を目の前にして涙腺も緩む。私の脳内では、裸足の女性が「君と好きな人が百年続きますように」と歌っている。

 

結婚式は規模の大きいものであった。参列者が多く、中でも新郎新婦の友人と思しき若者が40人ほどいた。一般的な規模は分からないが、私の肌感覚ではかなりの大人数である。これほどまでに多くの友人らが門出を祝す結婚式は、新郎新婦のふたりがその人徳と慈悲の心と人間的魅力を振り撒きながら、真っ当に人生を歩んできたことの証左であるように思われる。

 

私はどうだろうか。

 

もしも、私が結婚式を挙げる場合、会場には誰がいるのだろうか。

 

私はこの夫妻とは違い、多くの友人らに囲まれるキャッキャウフフとした人生を歩んできたとは言い難い。他者と親しい関係を築くことが不得手で、できる限り人間関係から逃げてきた人生だ。大学時代などは、5年間(留年したので)をずっとひとりで過ごしていた。会話をする相手といえば、大学の教官か新興宗教の勧誘の人くらいなものであった。そんな私が結婚式の招待状を誰に送るだろうかということである。結婚というステージの遥か手前でポツネンと途方に暮れている私であるが、予め考えておいても損はないだろう。

 

結婚式の招待状を送る行為は、平たく言うと「私たちが永遠の愛を誓うところを見にきてください。そして祝ってください。"ヒューヒュー"とか言ってください」と要請することである。そこには少なからず傲慢さが孕む。結婚式への出席は多くの時間的、財的リソースを要する。結婚式の招待状を送るとは、列席者にそれらを押し付けることだ。このような傲慢さを通すには、相応の信頼関係が必要となる。結婚式とは誰彼構わず招待できるものではないということだ。

 

 

 

 

招待状の宛先を考えてみる。

 

どうやら私の伴侶となる女性は15人程度の友人を招待するらしい。彼女は私の交友関係の少なさを察して「無理して人数合わせることないと思うよ」と言っていたが、新郎と新婦の招待客の数に隔たりがあると座りが悪いことは想像がつく。新婦が多くの友人を招待する場合、私も相応の頭数を揃えなければならない。私は15人の招待客のリストを練り始めた。

 

まず、友人たちである。

 

上記の夫妻は両方とも私の友人である。私はこの夫妻を含む5人グループで時々遊んでいる。ちなみに残り2人はカップルだ。つまり、夫妻ワンペア、交際中のカップルワンペア、そして私という布陣である。彼らと遊ぶときなどは笛を持参し、彼らがいちゃつきだすと大きく鳴らしたりしている。彼らとはエゴを押し付けるだけの信頼関係を築けていると信じている。まず、彼ら4人のテーブルができあがった。

 

あと11人。

 

私には今でも連絡を取り合う旧友が2人いる。片方は日本の最北端に、片方は異国に居を構えているが、お車代を全額負担すれば来てくれるだろう。彼ら2人の席ができる。大きな丸テーブルは持て余すと思うので、四角い平机にしよう。

 

私の「胸を張って"友人"と呼べる人間リスト」に載る人物は以上である。ここからが本番だ。

 

あと9人。

 

あとは、家の近所にあるドラッグストアの店員さんの席を作ることにする。私は日々の食事を全てここで購入するほどこのドラッグストアに通い詰めている。ザイオンス効果(単純接触効果)と呼ばれる「接触回数を多くすればするほど、その人は好感を抱くようになる」という作用がある。この作用に則れば、現在、このドラッグストアの店員さんが最も親密であると言っても過言ではない。招待状は手渡しすれば良い。5人ほど招待しよう。

 

あと4人。

 

もう、招待できるような人間に心当たりはない。どうしたものか。

 

起居するアパートの近辺に住む野良猫を招待することにする。彼らとは毎日顔を合わせ、行きがけに「行ってきます」、帰路に「ただいま」と挨拶を交わしたり、美容院に行った帰りなどは「どうかな?」と尋ね、「ミャー」と感想をもらったりしている。お願いをすれば来てくれるだろう。

 

 

 

蝶ネクタイをした猫たちが椅子にちょこんと座っていたら可愛いと思う。